結婚したくない。
という理由に
「誰かのために生きてる場合じゃない」というのと
「誰かの為に、なにかを物質化させたくない」
という気持ちがある。
これは「所有するものをふやしたくない」という思いにちかいとおもうのだが、
日常的に、誰かに何かを
(特に物質を)「望まれる」
というのがたまらなく辛いのだと思った。
僕は基本的に満足している。
(この穏やかな時間があるので)
だいたい満たされているのだが、
本当に『必要なもの』は物質化し、自分のものとしている。
これは一種の命への感謝なのだが、
何かを買ったり、自分のものとするときには、責任が伴うと思っている。
そこに実際命が淘汰されていようがいまいが、この世に物質として存在を帯びて『ここにある』と現れたものにたいして、
「中途半端にいれない」性分らしい。
全てに敬意を払いたいし、
敬意を払えないからといって
粗野な気持ちでは
絶対に手に入れたりしたくない。
それが安価であるとか高価であるとか
はまったく関係なく
「必然性」とか、とにかく
mustなことを
ものすごくたいせつにしている。
これはちょうど人間が
収穫物を取りすぎないようにするのに似ている。
(ちなみにこれらは、収穫物全体から省みることが多いが、
私は厳密に自分に必要なもののみを選んでいる)
ここで、例えば私は娘に何かねだられるとしよう。
ここでもまったく同じプロセスを踏むのだが、
娘の願いを無下にもしたくないし、
かといって、それが
洗練されていなくて、
世界に対して横暴ではありたくない。
結局平たく言えば自然界を
自分のものとして勝手にコントロールして一部のものを極端に
豊かにする行為なのだが、
これにおける「代償」
の存在を深く感じている。
もちろん、そこはそこで
教育すれば良いのだろうが、
うーん。まったくそれをやりきる自信がない。
というか、
欲しい!と言われたら
即用意してあげたいなという気持ちはあるらしい。
そのやってあげたい気持ちと、自然を裏切る気持ちと、でも出来ない現実と葛藤するメンタルを持ち合わせていないなぁと思う。
全てのなりたち、
成長、命、存在には
まったく均一に「価値」がある。
とにかく
そのバランスを崩すような横暴はしたくないのだ。
ここに対する信仰があるため、
大切な人が
吟味のない姿勢にはきっと怒るし、
まずあなたがやってみせよ。
それで無理なら考えよう。
と思ってしまう。
ここが
僕が独身でいる1つの決定打だ。と
思う。
自分で出来る事に対して
戦線離脱しようものなら
烈火のごとくそれを指摘してしまうと思う。
相手チームのラフプレーを審判に抗議するサッカー選手のように
「なんだ!ふざけるな!このやろう!」と。なってしまうと思う。
どこまでも生きるのが美しく、
これらに敬意を払ってる人はいて、
とても尊敬するのだが、それでも
「僕があなたを養う」理由にはならない。
このどこかで
「養ってもらえる」という心の緩みが
「全てを無にする」ような気がしてならないからだ。
共にあるというのは
微塵もその怠惰な姿勢がなく
フェアということだ。
かつ、柔軟に役割を分担しあい、
悲しさと嬉しさを分かち合うということだ。
うーん、これはもう10年くらい生きないとたどり着けない境地なのだろうか。とてもいまは無理な気がして仕方がない。
そもそも
大体の人が
「結婚=養ってもらう」とか
「結婚=幸せ」という構図からはいるから
もう、それを打ち崩すのに辟易としてしまう。
その為、このことが理解してもらえる率の低さは皆無であり、
やっぱ1人が幸せだな。
と、なってしまうのである。
0コメント